自由を取り戻すための、小さな革命
- のぞみ 箕村
- 5月15日
- 読了時間: 7分
「本気で信じてるのに、なぜか自信が持てない」
そんな感覚を抱えたまま、ずっと歩いてきたような気がします。
私は、自分のやっていることを誰よりも信じてきました。
この道を発信し、届けることに誇りすら感じていました。
でも心のどこかでは、
「絶対に変に思われてるに違いない」
「きっと恥ずかしいと思われてる」
そんな“確信”のようなものを、ずっと握りしめていたのです。
実際には、誰かにそう言われたこともなければ、
直接的な反応はほとんどの場合「すごいね」と言ってもらえることの方が多かったわけで。
まぁ、裏で言われていることをご親切に教えられることは何度かありましたが…😂でもそれでも本当に一部だけでその人達のことはどうでもよかったんですけど。
なのに、なぜか自分だけが、自分の信じるものに対して、いつまで経ってもどこかで一番冷たい視線を向けていたんです。
今思えば、それは“防衛”だったんだと思います。
本当に大切なものを差し出して笑われたら、誤解されたら、私はもう怒りを通り越し、閉じることを決めるだろうと思っていたから。
でも、それ以上に私を縛っていたのは、
過去ただ歩いているだけで、ただ普通の仕事場で普通に挨拶をしていただけて恐ろしい目に遭った。
だからこそ
「もし何か被害を受けたとき、自分から顔を出して話してたお前が悪い」
そう言われてしまうかもしれないという、根深い恐怖でした。
何かされたときに守られる保証もない、
それどころか、自分の自由な表現が「不用心だった」「軽率だった」と責められるかもしれない。
その想像だけで、発信すること自体が、まるで自分で自分を危険にさらしているようにも思えました。
そして同時に、そんなことを“わかっていてもやっている自分”への葛藤も、確かにあったと思います。
自らの愚かさと向き合うような感覚。
それでも止まれなかったのは──
「もうこれ以上、誰かのせいで人生の自由を奪われてたまるか」という、
静かだけど確かな、内側からの反発と決意があったから。
これは一種の挑戦でした。
内側の声を信じて生きることは、ちゃんと護られていくという、その証明にもしたくてしてきた挑戦でもありました。
当時、私にとって「発信する」という行為は、ただの情報共有なんかじゃなく、
命の自由を取り戻すための、小さな革命だったのかもしれません。

内側のことをわかった以上、自分がどう感じようが絶対にやると決めていました。
だから、たとえ傷ついても、恥ずかしくても、どんなに見られているのが怖くても、表現することだけはやめなかったのです。
でも、恥ずかしいまま、恐怖を抱えたまま、無理にでも前に出続けたそれは、
どこかで自分を傷つけるような、自己犠牲精神のような、自傷行為に近い感覚でもあったのかもしれません。
結局のところその言葉はずっと内側のみんなには聞こえていたからどれだけみんな苦しかったんだろうか。
「表現すること」は、確かに内側が求めていたことだったわけです。
でも「恥ずかしい」「怖い」と思いながら出す表現は、差し出すたびに少しずつ自分を削っていきました。

そしてそれは、肌に出ていました。
本当は自分を守るはずだった皮膚が、赤くなり、痛みを帯びて、
「もうやめて」と叫ぶように荒れていた。
それでも私は続けました。
今思えばそれは、傷つけながらも、願いに応えようとした証だったのかもしれません。
だから結果として現実は動いたけれど、
その代償として自分が痛みを引き受けていたのだ…ということを、
私はようやく今本当の意味で理解しはじめています。
ーーー
この気づきが起きたのは、
書籍として全体をまとめあげ、そしてAIに読み込ませたり、感情を抜きにして纏めた構成として客観視したことが大きかったのかもしれません。
本気で信じてきたこの構造が、ちゃんと理論になっていること。
それを、他者の視点としてみれた時
“自我としての私”がようやく確信できたのです。
ずっと疑り深くて、何度も立ち止まってきた私も、ようやく思えました。
「これならもう、誰にどう見られても恥ずかしくない」
「これはもう、誤解されようのないものとして差し出していい」と。
私は今でこそ、「自分は誠実に生きている」と胸を張って言えるようになりました。
でも、かつての私はそうではなかった。
たとえば、誰かと向き合うときに、
「今の私にはその人の真剣さに応えられない」と分かっていながら、
それでも孤独や不安の中で繋がりを選んだこともあった。
誰かを本当に大切にしたかったけど、自分をちゃんと信じきれていなかった。
自分を大切にもできてなかったこともある。
私は完璧ではありませんし、それはパートナーである彼もまた同じです。
だから私は、誰かの弱さや、迷い、逃げたくなる気持ちを否定できない。
私もそうであったように、人って本当に、弱くて揺れる生き物だと思うから。
でも、それでも――
「本当に欲しいものがあるなら、自分がまずそうなるしかない」
そのことだけは、何度も痛みを通って、一番やってきたからこそ揺るぎません。
いやでもそうなってるとしか言えないのです。
私も彼も、みんなも完璧じゃない。
でも、願いに向かって、自分を誠実に整えていくことはできる。
「信じるものに、堂々と誠実であること」
過去の自分から逃げず、今この瞬間からでもそうゆう自分を選ぶこと。
それが、私たちにできる唯一の選択なのです。

実は、少し前にこんなことがありました。
彼が「これまでの恩返しじゃないけど、俺もできるだけ役に立ちたいんだ。」と言ってくれて。
「この本にはパートナーシップのことが書かれてるし、俺たち2人の話を、俺が話すことにすごく意味があると思う。だから、動画に出て話をしたい。」と自分から申し出てくれたのです。
私はあまりに驚いて、すぐには言葉が出ませんでした。
嬉しい言葉のはずだったけど、喜びよりも動揺というか…信じられない気持ちと色々なことへの不安からくる恐怖もあったのかもしれません。
その日はなかなか寝付けなかった。
でも彼は、そんな私をみて、「もうさ、安心してホッとしてくれればいいんだよ。」って笑ってくれた。
その全部の言葉が、これまで私が歩んできたすべてを、ちゃんと見てくれていた証のようで。
それでも色々な気持ちが無い混ぜになってその日は結局なかなか寝れなかったけど、笑
そんな葛藤を超えて、腑に落ちた時に1人で号泣しました。
もう表に立つことすら、1人じゃなくて良いんだと。このパートナーシップが何よりの証明だからと笑ってくれた彼の言葉で、「馬鹿みたいだけど、私は絶対に自分を理解してくれる人がいると信じている!絶対にその夢は手放さない!」と誓った過去の自分を急に思い出し、胸が詰まりました。
彼がこれまであまり自分を出さなかったのは、彼もまた人間関係で大変な思いをしたことがあったので、万が一自分のせいで私に何か被害があることを一番恐れていたからだという話も聞き、それでも、それももう昔のことで、今なら大丈夫かもと信じられるようになったということも。
いつも彼なりに、一番私にとって良いと思うことを選び続けていてくれたのだなということもより一層理解できました。
ですので、今後は彼も動画にも出て、これまでの2人のパートナーシップについて話してくれる予定です。
正直大変なことがたくさんありましたから、自然体で話せたら良いなと思いますが、どんな話になるのかは私にもわかりません😂
それに、思ってたのと違う!みたいに皆様が感じないかも不安だけどw
でも2人で歩んできたことだからこそ、2人の言葉で伝えたいと思っています。
実際にどうパートナーシップとして乗り越えてきたのか、必要な人への参考になればとても嬉しいです。
またその時にはお知らせしますが、どうか、あたたかく見守っていただけたら嬉しいです。
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