自己肯定感が「低かったからこそ」築けたもの
- のぞみ 箕村
- 5月26日
- 読了時間: 6分
「自己肯定感を高く持ちましょう」
そんな言葉を、ここ数年でよく耳にするようになりました。
でも私は、ずっとこの言葉に引っかかりを感じてきました。
なぜなら私自身、
ずっと“信じきれない自分”と一緒に生きてきたからです。

「どうしてそこまで見えているのに、自己評価が低かったの?」と聞かれたことがあります。
それに対して、私はこう答えたいと思います。
どれだけ自分が頑張ってきたと思っていても、
どれだけ人に傷つけられてきたと感じていても、現実にズレが生じているのであれば、それは自分の構造が一致していない証拠なのです。
私は、何よりも“現実のズレ”を自分の責任として捉え続けてきました。
誰かのせいにして楽になるのではなく、
「なぜこの現象が“自分に”起きたのか」その答えを、
どこまでも自分の構造の中に探し続けてきました。
だから私は、どんな人よりも自分に厳しかったと思います。
でもそれは、私にとって苦しみではなく、ただの正しさでした。
そうしなければ、正確な構造なんて見つけられるはずがなかったのです。
ただ結果的に、私は他者には優しく、自分には厳しすぎる評価という形になっていて、
そのバランスは、健やかとは言えませんでした。
それでも私は、その“厳しさ”があったからこそ、
甘さや妥協では届かない領域まで辿り着けたという実感があります。
能力や結果という面では、私は恵まれていたと思います。
学力や運動神経、表現や仕事――多くの面で評価をいただいてきました。
数字で証明できる力については、ある程度自分でも「ある」と認識しやすかったのです。
でも、見た目だけは違いました。
見た目についても、ありがたいことに
「美しいですね」とか中には「女神…!」と言っていただけることもありました。
けれど、そのたびに私は心のどこかで違和感を覚えていたのです。
「そんなわけがない」と、どうしても受け取れませんでした。
それどころか、その言葉に“見合う自分にならなければ”と、
そこから努力を始めてしまっていたのです。
本来は、やっとたどり着いた“ゴール”だったはずの言葉。でも私は、それを「スタート」にしてしまっていた。
だから私は、永遠とたどり着けない“理想の私”を追いかけ続けていたのだと思います。
それはきっと、私の中に“内側の存在”の壮大さがちゃんと見えていたからだと思います。
その美しさに、外側がまだ追いついていないと感じていたのです。
私は、心のどこかで、内側の存在の美しさに見合うような外見にならなければ、
自分の本質は伝わらないと思い込んでいました。
例えば、かのファン・ビンビンのような、
誰が見ても非現実的なほどの美しさを持つ存在でなければ、
「私の内側」は伝わらない。そう思っていたのです。
そこと比べたとき、私の見た目は――どう見ても、あまりにも普通だったのです。笑
あまりにも普通に、“人間”だったから😂🤣
でも今は、ようやくわかってきました。
私は、見た目で“人間離れした何か”になる必要はなく、
言葉と在り方で、内側の素晴らしさを伝えられるようになってきたのだと。
特別さを見た目に背負わせる必要がなくなったとき、
ようやく私は、自分の姿を「ちゃんと素敵だった」と思えるようになってきました。

その積み重ねがあったからこそ、
今の私は――
どんな現象が起きてもブレない、揺るがない構造的土台を持っています。
そして結果的に、あらゆることを叶えることができる土台を築くことができました。
そこに立っていれば、現実のほうが応えてくるのです。
そしてようやく、ほんの少しずつ、自分を信じられるようになってきました。
…
私の弟子は、私とは真逆のタイプでした。
構造の理解がほとんどない時期から、感性で動くだけで現実の結果を引き寄せていたのです。
運動全般は苦手で、マット運動すら満足にできず、
他の競技でも特に目立った成果を出していたわけではありませんでした。
それなのに、なぜかたった一つの競技だけ、奇跡のように全国大会に出場しています。
(勿論前提として、彼女の努力なしには語れないものであるのは確かな事実ですけどね。)
「体育教師になるなんてありえない」と周囲が驚くような状態でも、
なぜかその現実が叶ってしまう――
それ以外にも彼女はどんな有名人でも逢いたい人には身近で出会えるような奇跡的なラッキーもたくさん体験しています。
それがまさに、“構造の一致による応答”だったのです。
そして、こうやって無意識であっても内側と一致した迷いのない行動ができれば、
普段のポテンシャルと結果が関係ないことを、彼女は常に証明してくれています。

けれど、こうしたタイプはとても大きな“構造的な盲点”を抱えやすい側面もあります。
自己肯定感が高いことは、確かに行動力や結果に結びつきやすいです。
けれど、内側とつながっている“感覚”と、構造的に一致している“実際”は別物です。
その違いを理解しないままでは、全てに結果が出るとは限りません。
やがて直感もズレ始め、元々のポテンシャルのままの結果しか出せなくなっていきます。
すると本人の中では、「昔はうまくいっていたのに」という不満や焦りが強まり、
ギャップと行き詰まり、欲求不満が蓄積していくのです。
たとえば弟子の例で言えば――
全国大会に出場した経験を、「自分の基準」として定めてしまったことで、
マット運動すらできない普段の自分の状態が、
「異常に酷く見える」ような自己評価の歪みを生んでいました。
そこに蓋をしてしまえば、自己像とのズレはますます広がっていきます。
「私はもっとできるはずなのに、なぜ?」という苦しさだけが残る構造になるのです。
でももし、その全国大会の経験を、
「内側が構造的に一致したときに起きたラッキーな応答だった」と捉えられていれば――
普段のマット運動が苦手な自分や、地道な努力の日々も、そこにある本当の素晴らしさを、
否定せずに“まるごと”受け取ることができたはずです。
そのとき初めて、
現実の自分を正しく見つめながら、外の評価や結果に揺さぶられない、
本当の意味での自己肯定が育っていきます。

つまり――
自己肯定感が低くても、誠実に構造を見つめ、現実と向き合い続けてきた人は、
年々、自分や他者からの信頼と確かな結果を手にしていきます。
一方で、自己肯定感が高く、無意識に内側の力に頼ってきた人は、人とのコミニュケーションに戸惑い、過去の感覚と現実の差に戸惑い、年々、生きづらさを感じていく傾向にあるのです。
それは、構造の問題であって、人格や能力の差ではありません。
けれど、そのズレに気づき、歩みを修正できるかどうかが――
自分自身の土台を築けるかどうかの分岐点になるのだと思います。
だからこそ、自我としては、
「自分を今より低く見積もるなんて、絶対にしたくない」と感じるかもしれません。
でも、ほんの少しだけでも、
自分の認識に“見落としがあるかもしれない”と疑ってみることが、
本当の意味での構造的な変化を起こす起点になります。
…
私は、厳しすぎた認知ゆえに構造を掘り当ててきました。
それを形にして表現できるようになった今だからこそ、
本当の意味で自分の評価をフラットにしていくことで、
この素晴らしい私の内側と一致して起きるミラクルがどんなものになるのか、今から楽しみです。
そして、その素晴らしさを、ただ純粋に楽しんでいきたいと思っています。

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