本当の強さとは?
- のぞみ 箕村
- 6月20日
- 読了時間: 4分
前回の出来事をふまえて──
あのとき、知らない男性に声をかけられた瞬間、私は直感で「まずい」と察知して、その場を離れました。
でも、どうしてあれほどの怖さが残ったのかを、あとになって考えていたんです。
そのことを彼に話したとき──
彼はこう言いました。

「護身用の何か持つ?それか、俺と戦って鍛える?反射神経戻ったら気持ちも変わるかもよ」
護身用は本当に以前から考えていたけど、まさか「戦って鍛える?」と言われるとは思わず🤣
流石だなとは思いつつ、「戦うのは手加減してくれなそうだし嫌だよ!」と笑って返しましたが。
たしかにサッカーをやっていたときは、気持ちも強かった気がして…
「やっぱりある程度鍛えるのは、必要なのかもね。」
と返して、でもすぐにこう続けました。
「でももう、あのときみたいに強くゴリゴリになりたいわけでもないんだよね」
すると彼が、穏やかな声でこう言いました。
「でも今度は、硬くなるんじゃなくて。しなやかになれると思うよ。
ずっとガチガチだったのに、最近急に身体が緩んできたでしょ?
流石に俺も、そう信じられるよ」
──本当にそうだなと思いました。
先日のブログにも書いたように表層の覚醒があったあと、急に自分でも身体が別人のように緩んできているのを感じていて、ようやく、動きや感覚が戻ってきているような気がしていたからです。
しなやかな動きのできる肉体には憧れていたけど、どうにも私の身体は一定から固まったままだったので…そうなれるなら本当に最高だなと思いました。

あとから自分の中を見てみて、さらに気づきました。
怖かったのは、“何かされそうだったから”だけではなくて、「咄嗟に動けなかったらどうしよう」という、身体そのものへの不信感もあったのだと。
察知する感覚や直感はいつもあるのに、
いざというときにしたい動きに身体がついてこない──
この、ほんの少しのズレが、必要以上の恐怖を生んでいたのかもしれません。
私はもともと、身体の動きのスピードに強みがあるタイプで、
これは思考とも重なりますが、感覚的にも察して瞬時に動く、ということは得意でした。
実際、昔から足が速いのもひとつの“武器”で、
とにかくすばやく反応することで、何かを避けたり回避するのが自然とできていたのだと思います。
でも、大人になるにつれ、気づけばそういった“動ける感覚”が薄れていって、
今は「頭ではわかってるのに、身体が動かない」という瞬間が増えていた。
──それが、自分でも気づかないうちに、
「避けられないかもしれない」
「追いつかれてしまうかもしれない」
という感覚につながって、不安や恐怖を助長していたのだと思います。
そしてどこかで、
「どんなものでも受け止められてこそ、本物の強さだ」と思っていたのかもしれません。
だからこそ、避けることがまるで“逃げ”のように感じて自分に禁じていたのかもしれません。
だからこそ、何を受けても感じない強さを求めて閉じていたのでしょうね。
結局感じなくなることはありませんでしたが…
でもその分、正面から受け止める力は、そこからぐんっと強くなった。躱すのが上手くても、いざとなったら弱いのではやはり心許ないし、
どちらも必要なものだったのだとも思います。
また、根っこには
「男の人には力では敵わない」から怖い、という思い込みもあったのかもしれません。

でも、強さって、腕力だけじゃない。
実際の戦闘だとしても、頭だって使えるし、物だって使える。避けられるものまで、わざわざ受け止めなくてもいい。
そもそも、当たらなければ怖いこともないのですから。
瞬時に状況を察知して動くこと。
硬さではなく、“しなやかに対応する柔軟さ”。
それだって、立派な強さだった。
そもそも腕力=強さなんて、あまりにも私らしくない、浅はかな視点でした。
他のことと同じように、自分の能力を活かして、強くなるには?を考えなきゃいけないのは当たり前だったし。
それはいつだって可能なんだから。
内側を見る人として、情けないくらい。笑
そのくらいに、ここだけ視点がおかしいよ、というのを──
教えてくれていたのかもしれません。
アスリートや少年漫画のような話に聞こえてしまうかもしれませんが、現実問題、本当に自由に生きたいなら強さは欠かせません。
常に誰かに護ってもらいたいというのもそもそも自由とは逆のことですし、現実的ではありませんからね。
それに、これは、身体のことだけではなく、
精神的な在り方にも、すべて通じる話です。
しなやかさを取り戻すことで──
ようやく、本当の意味での「強さ」を、取り戻していける気がしています。
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