その恐怖は、内側が鳴らしたアラームだった
- のぞみ 箕村
- 6月19日
- 読了時間: 5分
少し風が強かったけれど、
今日はなんだか、自然の心地よさに触れたくて、久しぶりに近所の河原まで散歩に出かけた。
夕方の日差しは優しくて、肌を撫でる風も気持ちよくて、歩いているだけで「生きてる」って感じられるような時間だった。
翡翠を見ることもできて陽を浴びて本当に青く光っていた美しい背中にも、癒された。

道中、すれ違う車の人たちになんだか妙にじっと見られていることに気づいた。
昔だったら「化粧もしてないから…何か変なのかな😥」と不安になっていたけれど、
今日はそういうふうには感じなかった。
ただ、私が開いたからこその影響力なのだろうと、静かに受け取っていた。
──でも、そんな風に心地よく風を楽しんでいた河原で、横から飛び出してきたひとりの男性と目が合った。
私はただ、前方に人がいたから視線をやっただけだったのに、その人はこちらをじっと見続け、急ににやっと笑い話しかけてきた。

私はイヤホンをしていたから、何と言われたかは聞こえなかった。
会釈だけして足早に立ち去った。
実際に危害を加えられたわけではない。
でも、強烈に「怖い」と思った。
…
この時点で、内側はちゃんとアラームを鳴らしてくれていた。
ガタイの良い体躯、目が合った瞬間の視線の強さや、にやけた表情、距離の詰め方──
そのすべてに反応して、「ここは危ない」と教えてくれていた。
あのとき「この人はこういう目的で、こうしてくるだろう」と瞬時に予測できた。
なのに私は、一瞬それすらも自我の声だと思っていて、「気にしすぎかも」「感じすぎかも」と押し込めようとした。
しかし、今日確信できた。その瞬間の予想は、まさに“内側からの声”だったのだ。
それを「気にしすぎ」と疑っていたのは、もはや内側を疑っているのと同じことだった。
私はもう、いい加減に降参しようと思った。
私の自我はもうとっくの昔に…内側の声を邪魔しないところに来ていたのだから。

私は昔から、こういう場面に何度も遭ってきた。
昼間の公園や駅前、複数人からのナンパ──
電車の中で…
相手が笑っていたり、柔らかい言葉を使っていたとしても、
「何かが違う」「これは不快だ」と思った経験は、数えきれない。
普通に声をかけられることもあったが、それはただ受け流せば良いだけ。
でも、不快な時は感覚があまりにも違うのだ。
文字通りゾッとする。
それでも、「もう私もそもそも10代20代ではないし考えすぎかも。」「そこまでの悪意はなかったかもしれない」と相手を優先しようとしたり、「刺激しないような柔らかい態度でいたほうが安全かも」と自分を納得させようとしたりしてきた。
“何かされるかもしれない”という、本能的な恐怖のほうが強かったが、その結果、むしろ相手に“いける”と思わせてしまったのかもしれない。
恐怖を疑うことで、かえって自分の身を危険に晒していたのだと。
だから、あの場面でイヤホンを外さず、会釈だけして立ち去ったことは、正しい自己防衛だった。
無視したら逆上されるかもしれないし、少しでも話せば勘違いを産むかもしれない中で完璧な立ち回りと言えよう。
イヤホンのおかげで好きな音楽の音しか聴こえてなかったのも良かったのかもしれない。
そもそも、このシチュエーションで下心を出して話しかけてくる時点で、まともな判断力とコミュニケーション能力はないだろうということ。
そんな当たり前の直感すら疑って、自分に言い聞かせようとしていたことこそ、危うかった。
別に、すべての男性に恐怖を感じるわけではない。
ただ、恐怖を感じやすいのは事実で。
それは私の感覚のせいではなく、
これまで実際にそういう場面が多かったからだと思う。
こんなことが繰り返されて、1人で外出するのが怖くなっていたこともあった。
みんなが体験してるわけでもないのも辛かったし、自分の何が悪いのか色々考えた。
昼間に普通に外に出られないのは嫌だし、人混みとかだと余計に増えるし、私は自然が好きで静かな時間を得たいだけなのに、危険な目に遭う方が嫌だから。
そういう当たり前の心地良さを諦め、安全を選んでいるつもりだった。
そもそもそうゆうことが起きないような人生になれたら良いと思ってたけど、それは「私として」生きていく上で無理な相談なのかもしれないね。笑
…
そして帰り道。
今度は家の前でお花の手入れをしているお綺麗な女性が、やわらかい笑顔で軽く会釈してくれた。
私も同じように、笑顔で返した。
その瞬間、すごくほっとした。
やっぱり私が感じた“違和感”は、「人が嫌い」とか「誰とも関わりたくない」とか、そういうことではなかったのだと、はっきりわかった。

ちゃんとした関係性の中で交わされるものなら、
私は安心できるし、嬉しいとすら感じられる。
ただ…これも過剰になると、私は相手に合わせて自分の快を押し留めるから。
だから今日は、道行く人の気持ちよりも自分を選んで、話しかけたそうな彼女に気づいたが…今日のところは会釈だけして帰った。
私は、今の自分の感覚を信じていい。
誰かの期待や空気じゃなく、
自分の中の確かさに従っていい。
内側が恐怖を感じていたのは、
こうやって「自分の感覚を疑うこと」で、
私が本当に危険な目に遭うかもしれないからだったことがよくわかった。
こうやって強い感覚を開いたことで、たくさんのものが入ってくるかもしれない。
でもそこで閉じても、漏れ出るものに集まる人はいるし、
感覚も鈍って、かえって危なくなる。
逆に──
その感覚がしっかりと開いていて、
それを私が疑わなければ、
身を守れることをちゃんと教えてくれたのだ。
風の気持ちよさと一緒に、
今日の散歩はそんな確信が、深く深く染み込んだ時間になった。
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