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肌が教えてくれた愛

  • のぞみ 箕村
  • 5月20日
  • 読了時間: 6分

肌って、外界と接する唯一の場所なんですよね。

だから、そこは色々教えてくれる場所でもある。


どれだけ自分を取り繕っていても、私の肌だけは、ずっと正直だった。

これは、そんな肌にずっと教えられてきた話。




私は生まれた時から、とても敏感な肌を持っていた。

赤ちゃんの頃にはアトピー性皮膚炎を発症し、頭皮まで炎症が広がるほどだったという。

しかも、当時処方されたステロイドすら合わず、一般的な治療法が使えなかった。

けれど、物心つく頃には自然と肌が整っていた。


今思えば私は、外から“治される”ことを求めるのではなく、自分の本質とつながって整っていくという道を、最初から選んでいたのかもしれない。

自分がどんな存在で、どんなやり方で癒えていくか――

その“芯の感覚”を、言葉になる前から、自分が意識する前から、身体で知っていたわけだ。


そして、その感覚は、今の私にも確かに続いている。




私はこれまで、「肌が敏感だから」「人より反応しやすいから」と、自分を責めたり、劣等感を抱いていたことがあった。

けれど今思えば、私の肌は“他の人にはわからないもの”を最初に感じ取る力を持っていた。


ナイアシンアミドなど、一般的には「良いとされる成分」でも、私の肌は強く反応する。

一方で、ツボクサエキス(CICA)のような、ごく一部の成分だけが穏やかに受け入れられる。

この違いは、「合う/合わない」だけの話ではない。

私の肌は、“外側からやってくるもの”に対して、その本質が安全かどうかを見極める力を持っていたのだと思う。


そしてこの「肌の感受性」は、単に物質への反応ではなく、

“人との接点”に対する私の感受性そのものでもあった。


肌は、外界との最初の接触点。

だからこそ、そこに現れる反応は、

「この距離はつらい」「この近づき方は痛い」という、私の内側の叫びだったのかもしれない。


誰かの視線、言葉、気配、雰囲気――

それらが“肌でわかってしまう”ように、私には伝わってくる。

ただの優しさに見えるものでも、そこに微かな支配や攻撃などが含まれていれば、私の感覚は反応してしまう。

痛みや違和感をどうしても感じてしまう。



つまり私の肌は、

「接触」という日常のなかに潜む“微細な違和感”を正確に拾い上げていた。

その繊細なアンテナは、「合わない成分」だけでなく、「合わない関係性」や「合わない距離感」にも、はっきりと反応していた。


だからこそ、それは単なる「弱さ」ではなかった。

むしろ、“世界との接し方”を深く理解するための感受性だった。

それが“痛い”ものであったとしても、それは自分を守り、整えるために与えられた本質的な力だったのだと思う。



この頃スクール生の方も増えて、皆様から本質と繋がりを持つことで起きる出来事の力強さや早さには本当に驚きますという声を頂くことが増えてきて、ようやく気づいたことがある。

私は、自分の中にある“強さ”や“早さ”を、自覚したことがなかった。

比較したことがなかったからかもしれない、それは私にとって“最初から在るもの”だったからだ。

だからこそ、それが人にどれほどの影響を与えていたのか、自分ではわからなかった。


ある方が、non.さんの内側はとても静かな水の景色だと思っていたけど、実際にはもうゴーゴーと音なるほど、立っていられないほど圧倒的な水量と流れの強さですよねと話してくれたりもして、人からはそう感じるのかととても新鮮だったり🤣




けれど確かに今振り返ると、相手の反応の速さや、現実で起きる出来事の濃さは、私が持つ内側の強さと関係していたのでしょうね。

本質に触れたときの流れの速さや深さ――私はそれを「すごい」と感じたことがなかった。

むしろ、それが止まっているときの方が不自然に思えた。遅いとさえも思う。

それくらい、本質の流れは私にとって“いつもの感覚”だったのだと思う。


だからこそ、見極める力が必要だった。

全く気づいていなかったが、どうしても通ってしまう感覚のまま人と接すれば、自分が飲み込まれるか、相手を圧倒してしまうか、どちらかに傾いてしまう危うさがあったのだと思う。

でもその体質自体が悪いわけではなく、変えようのないものを理解せずに放置していたこと、

あるいは本質の望みとズレた選択をしていたことが、より大きな歪みを生んでいたのだと、今は思う。




実際、私はこれまで、何もしていないのに、極端に好かれたり、極端に嫌われたりするという経験が多くあった。

嫌な意味でのストーカー的な反応だけでなく、

必要以上に近づかれたり、強く好かれたりすることも多かった。これは男女関係なく、だ。


また一方で、嫉妬なのか恐れなのか、関わりもないのに執拗に私の悪口を言い続けるような人もいた。

直接関わったわけでもなく、何か特別なきっかけがあったわけでもないのに、

まるで私の存在そのものに過剰な意味づけをされてしまうようなことが、何度もあった。


けれど、そうしたことが続いたからこそ、私はそれだけ色々起きても尚、「自分が特別だ」なんて思わないよう努めていた。

だって、何もしてなくても色々言われるのに、もしほんの少しでも「私には何かある」と思ったなら、その瞬間にまた誰かの標的になるような気がして――

私はむしろ、自分を引き下げ、目立たず、慎重に、常に自戒しながら生きてきた。



今ならわかる。

そうやって、本当は持っていたものを“なかったこと”にしようとしたことで、

内側の認知と現実との間に大きなズレが生まれていたのだと思う。


本当はもっと自然に受け取れるはずだったのに、

自分を否定することでその流れが歪み、

精神的に不安定な人や、執着的に近づいてくる人を引き寄せたり、

身体に現れる異常として、形を変えて現れていたのかもしれない。



私ほどの激しい出来事でなくても、

心や身体に不調が現れることは、誰にでも起こり得ると思います。


たとえば、理由のわからない疲労や肌荒れ、気分の落ち込み、痛み、眠れなさ――

それらは単なるストレス反応ではなく、

「自分が本当の感覚から離れていないか?」というサインかもしれません。


実際、多くの人は「うまくやり過ごす」ことで、

人間関係や日常の中で衝突を避けたり、波風を立てずに済ませることができるのかもしれません。

そして、その程度の“ズレ”であれば、すぐに大きな問題になることも少ないのだと思います。


でも、私の場合は、ほんのわずかなズレでさえ、身体が見逃してくれなかった。

やり過ごそうとしても、うまく馴染んだように見えても、

「本当のところは、違うよね?」と、内側から強く問いかけられるような感覚があった。


それは今の肌を見ても、はっきりとわかる。

少しでも合わないものをのせれば、即座に反応する。

逆に、ほんのわずかでも“本当に合っているもの”なら、自然と整っていく。


私の身体は、

表面的なバランスではなく、“本質と一致しているかどうか”だけを見ていたのだと思います。



そして今になって、ようやく気づけたのは

私はずっと、

「生まれ持った力を活かせずに生きてきたことに対して、罰を受けているんだ」と思っていた。

それが内側からの怒りのとして、恐怖や不調として現れているのだと、ずっと信じていた。


でも彼との日々の中で、ようやく気づいた。

あの時、「私はあなた」と語りかけてくれた女の子――

あの瞬間からずっと、

私を責めるためではなく、救おうとして、語りかけ続けてくれていたのだということを。


それがわかったとき、これまで“罰”だと思ってきたすべてが、とてつもなく深い愛に変わって、、涙が止まらなかった。

夜中にボロボロ泣いて、寝室に来ない私を心配して降りてきた彼が驚いたくらい🤣



ずっとそこにあったのは、責めではなく、救いだったんだ。



 
 
 

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