なぜこんなにも怒りが湧くのか ―声にならなかった感覚を辿って―
- のぞみ 箕村
- 5月9日
- 読了時間: 3分
更新日:5月15日
本の最後にも少し触れた根源の「怒り」について――
ここでは、私が“個人”ではなく“社会”に対して感じていたことを、
少しだけ具体的に綴ってみようと思います。
感じ方によっては、重く受け取られるかもしれませんが、
それでもここに言葉として残しておきたかった想いです。
たぶん、私の根っこはこういう深さからできているのだと思います。
少しでも、心に触れるものがあれば嬉しいです。

パートナーシップにおける性的なつながり――
それは、身体と心、魂の深いところが重なり合い、
信頼や愛情を形にしていく、かけがえのない営みのひとつだと感じています。
性的な快楽そのものは、とても大切なものだと思っています。
だからこそ、それが「モノ」として扱われ、消費されるような現実に出会ったとき、
どうしようもなく怒りが湧いてくるのです。
特に、子どもへの性犯罪のニュースを見たとき。
私は理屈では説明のつかないレベルで、怒りと吐き気に襲われました。
全身が拒絶し、敢えて言葉を選ばずに言うと加害者を拷問して殺したいとすら思うほどの感情が湧いてきます。
私は被害者ではありません。けれど、それでも苦しくなるほど怒りを感じてしまいます。
見知らぬ相手から、それぞれ違う場所違う相手から何度もストーカー被害にあった経験があるからかもしれません。
「選べなかったこと」「普通に生きていて危険に晒されること」を、身体レベルで知ってしまっていたのです。
そしてそれ以上に、“選択肢のなかった存在が傷つけられる”という構造そのものに、
私の中の何かが激しく反応していたのだと思います。

その一方で、“自らそれを差し出しているように見える人たち”がいる現実にも、
私は複雑な思いを抱えてきました。
性的な行為を職業にしている人がいます。
それは“自由な選択”とされ、一定の理解も広がってきました。
たしかに、その人自身が納得して行っているのであれば、
それを否定することはできないのかもしれません。
けれど、そういった仕組みがある為に、その中で“得る側”が当然のように欲望を向け、
ときにその産業と全く関係のない人間全体までを、「手に入れられるモノ」「快楽の提供者」として見るような視線や言動に出会ったとき――
私はやはり、深いところで怒りと絶望を感じてしまいます。
選んでいるように見えても、本当にそこに“選択肢”があったのか。
それしか愛される方法を知らなかった人も、いたのではないか。
それすら“自己責任”とされ、誰にも届かない痛みになっていく構造が、
また別の暴力を生んでいるように思えてなりません。
私がここまで怒りを感じていたのは、きっとそのせいだったのでしょう。
身体としては殺されていなくても、そこにいたAlmy――感性や尊厳そのものが、
生きたまま押しつぶされ、声を奪われ、殺されるようなことだったのです。
それを“仕方なかったこと”や“自由な選択”として済ませてしまう空気に、
私はどうしても怒りを抑えきれませんでした。
ただ一方で、
性が産業として存在することで性犯罪の数が減ったという見解もあります。
パートナーや人間関係が築けない人たちにとって、
救いになったこともあるのかもしれません。

だから私は、「性をサービスにすること」が完全に悪だとは言い切れません。
わからない。簡単には判断できないのです。
けれどやはり、“身体がただ消費されていく”ような空気や、
“誰かが誰かの欲望のために存在している”という前提が、
どこかに横たわっているように感じるとき――
私は、そこに大切な何かが壊れている気がしてならないのです。
続きます。
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